こんにちは、気分障害のアキです。
私がはじめてメンタルクリニックを受診したのは16歳のときでした。
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高校を中退して一人暮らしを始めてすぐに受診しましたね。
抑うつ症状が酷くて、年齢も年齢だし境遇も境遇だし、というわけで当時かかった医師はすぐに「気分変調症」という診断で手帳など福祉の手続きを進めることを提案してくれました。
が、当時知識もゼロ、処方された薬もきちんと飲めない、自分はこれから新しい生活をしていくんだという意気込みもあり、薬をろくに飲まないままがむしゃらに掛け持ちバイトをし続けた結果、3ヶ月弱で自殺未遂をしてうつの急性期症状で数ヶ月布団から動けなくなってしまいます。
その後、20代半ばまで受診せずに生活してきたわけですが、この記事ではうつを放置して無治療でいた期間どんな生活だったかを書きたいと思います。
目次
自傷行為として身体を売りまくった
※売春は犯罪です
解離性人格障害などをもつ姉がリストカッターだったのですが、うつの急性期を過ぎたころ、私もまた強烈な自傷衝動を感じるようになります。
しかし、いざカッターを手首に当てても「怖い」気持ちが湧き上がって、リストカットはどうしてもできなかったんですよね。
そこで何をしたかというと、処女を捨てるという行動です。
年齢=経験だった当時17歳、出会い系サイトに登録し、18歳と偽って募集をするとすぐに複数のメールが来ました。
最初に届いたメールに返信、大きい駅で夜待ち合せをし、ホテルに入り、相手がシャワーを浴びている間に飲めないお酒を飲んで覚悟を決めたところ、その相手が私の異様な状態に気づいたのか、しばらく話を聞いてくれました。
(やることはしっかりやりましたのでいい人だとは思っていません)
その後、孤独と衝動を紛らわすために私は出会い系サイトにのめり込んでいきます。
ネットのオフ会でモラハラ男に遭う
出会い系サイトだけでなく、ネットのオフ会にも頻繁に顔を出すようになりました。
出会い系サイトは基本的に同じ人と会うことは二度となかったのですが、オフ会はある程度決まったメンバーが参加して掲示板上でやりとりもするので、人とつながっている感が感じられる場でした。
そのオフ会で出会ったのがモラハラ男です。
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つきあい始めたのを機に出会い系サイトから足を洗い、派遣で販売の仕事をするようになりました。が、モラハラ男は徐々に本性をあらわし、同棲することで私はモラハラ男の奴隷同然の扱いを受けるようになります。
2回の転居を経て家電量販店と書店のアルバイトを掛け持ち、更にモラハラ男の仕事の手伝いと完璧な家事という状況に耐えられず、何度か家出を試み当時のバイト先とは音信不通に。
最終的にモラハラ男から「もう逃げないように」と首輪と手錠をつけられ寝室に監禁されたところで、私は実家の母に助けを求め、何とかモラハラ男のもとを離れることに成功しますが、実家には文字通り私の居場所がなかったので近所に住む父方の祖母の家に身を寄せることになりました。
少ない貯金を取り崩しながら療養するも
身を寄せたとは言え、食事や金銭的な援助は得られなかったので、掛け持ちバイトのお給料20万ほどを取り崩しながらの、また布団から動けない時期を3ヶ月ほど過ごします。
しかし、祖母は精神疾患には理解がなかったので、
「いつまで怠けているんだ」
「いつになったら出ていくんだ」
と言われるようになります。
もう、祖母の家にもいられないと感じた私は、3日分の服や貴重品を大きなバッグに入れて、祖母にも母にも何も告げずに出ていきました。
そしてネットカフェ難民時代に入ります。
日雇い派遣で食いつなぐ日々
名古屋の金山駅を拠点としたホームレスになりました。
駅の近辺には複数の日雇い派遣事務所とネットカフェがあり、また金山駅は地下鉄の環状線が通っているので仕事がない日は200円で環状線に乗り、寝て過ごすことができました。
夜はネットカフェのナイトパックを利用していましたが、派遣の仕事がうまく入らず所持金が千円を切った日はオフィスビルの廊下や駅のトイレなどで夜を過ごしました。
もちろん症状はひどいです。毎日泣いていました。いっそ風俗に行こうかと面接を受けてみたら、「暗い」という理由で落とされました。風俗も接客ですからね。
風俗ですら働けない、野宿をしてドブネズミのように生きている自分が情けなく、家庭環境を呪ったり、頭の中はぐちゃぐちゃです。
ぐちゃぐちゃの頭の中で、日雇い派遣の仕事はある意味考えずに済む時間を作れるという面で効果があったと思います。倉庫内作業やピッキングが多かったので、基本的には人とかかわることも少なく黙々と単純作業をするだけです。
幸いにもネットカフェ難民時代は自殺をすることなく過ごしました。
ときどきネットのオフ会に参加し、孤独感を紛らわせたりもしました。
そのオフ会で知り合った友人の紹介のような形で夫と出会い、夫は当時の私の境遇を知ると自宅の合鍵を渡して「僕は日中家にいないから、好きに使っていいよ」と言ってくれたのでした。
同棲を経て結婚生活が始まるも、続かない仕事
夫とは自然に同棲生活が始まり入籍。
日雇いでない販売のアルバイトを始めたはいいものの、半年で人間関係に悩み、ある日出勤できなくなってしまいました。身体が動かないんです。
当時のバイト先はブッチする形で辞め、数か月後、次は事務系の派遣の仕事を始めましたが、1年で派遣切りに遭います。すぐに別の派遣でコールセンターの仕事をするも、そちらは9ヶ月位でやはり突然出勤できなくなり、ブッチ。
半年ほどカードローンなどで補いながら療養した後、また別の派遣の受付事務を始めましたが、5ヶ月で派遣切りに。
派遣切りも要因としてあるんですが、とにかく仕事が続かない。職歴はどんどんボロボロになっていきました。
何度か自殺企図もしましたが、実行には移していません。
出産するが、適応障害・双極性障害に
福祉系機関の事務嘱託社員として働き始めて3ヶ月後に妊娠、出産と共に退職。
ですが、福祉の仕事に非常に魅力を感じて職業訓練を受けたりして、出産の1年後に再度福祉系機関に相談の嘱託社員として入社しました。
しかし、1年後にやはり出勤できなくなり、ようやくメンタルクリニックを再度受診。
「適応障害」という診断名で1ヶ月の休職と共に服薬を開始。
すると、嘘みたいに憂鬱な気分が吹き飛び躁転。
福祉関係の知識を身につけていたため、すぐに自立支援と手帳の手続きをして、手帳3級を取得。一般雇用のままではありますが、福祉の機関だったため病状に対する理解は得られ、服薬治療も継続して何とか契約期間満了までの3年間勤めることができました。
16歳の時にきちんと治療を受けていたらどんな人生だっただろうか
最初にメンタルクリニックにかかったときの医師は非常に親身に対応してくれたのですが、私が無知だったために支援の手を振り切ってしまいました。
年齢的に、児童保護施設への入所なども出来たかもしれませんし、障害手帳を早々に取得して障害者として働く方法もあったかもしれません。
病識ももっと早くに持てたかもしれないし、何より早期の治療開始によってもしかしたら今頃は寛解していたかもしれない。
「もし」を考え始めると、きりがないですし、無治療の期間もそれはそれで経験値になったとは思っています。
しかしながら、やっぱりもっと早くにきちんと治療を受けていたら、とは考えちゃいますね。
10年以上経って、手帳取得から4年経って、ようやく私は今「うつ」である自分を認め、積極的に治療しようと病識をもつことができました。
そんな自分を振り返ると、「うつ」である自分を認めて「治療」を受けるということに対する心理的ハードルは、やっぱり結構高いのかなと思います。
自分がそんな状態なので、あんまり言葉に重みをもたせることは出来ないんですが、ネットとかアプリでうつ診断をしてみて、「要受診」という結果になった方は、素直に受診した方が良いと思います。
もう最初にメンタルクリニックに行ってから15年以上経ってしまっていますが、15年経ってようやく病識を持てた私は、ようやく治療のスタートラインに立てたと感じているんです。
治療の第一歩はうつである自分を認めることだと思います。
病気を受け入れることだと思います。
15年以上、うつに対してろくな対処をしてこなかった私ですが、うつ病者としてどう生きようか、と考え始めてから明らかに病気に対する姿勢も、生活も、今後どうしていくかという方針も、ガラリと変わりました。
とはいえ、簡単に受け入れられる人ばかりでもないと思います。
受け入れられなかった結果、どうなったかは以上に書いた私の人生を参考にしてみてください。
くそみそですよ。
わけの分からない苦しさに悩まされるくらいなら、さっさと開き直ってしまった方が良いです。
治療のスタートラインは病気を受け入れることです。
病気と生きていく覚悟を持つことです。
なかなか難しいかもしれませんが、私のくそみそな人生経験が誰かの胸を打つことを願います。