こんにちは、気分障害のアキです。
この記事では私の今までの経験を馬鹿みたいに赤裸々に綴りました。
穴どころか地中深くのマグマの海にダイブして消え去りたいような過去もありますが、そんな過去も含めて今の自分なわけなので、今となっては貴重な経験です。
長くなりますが、よかったら読んでいってください。
目次
実家で過ごした高校2年までの期間
学校に通ってましたが、不登校の時期もあります。
はじめて「死にたい」「明日なんて来なければいい」と思ったのが小学校3年生の頃。
今思うと、その時から躁うつ気味だったかもしれません。
「(名前)菌が感染るぞー!www」
当時の私は、
- 歯磨きろくにしない
- 二日同じ服を続けて着る
- 風呂もあんまり入らない
という正に「不潔」だったので、そりゃいじめられてもしょうがないわ、って感じです。
でも、大人になって結婚して子供を産んでから思うんです。

冷静に考えてみると、なんか変です。親は何してたんだって。
私の両親は、共にスーパー放任主義だったんです。共働きで帰りも遅いし。
放任主義っていうと聞こえがいいですね。「ネグレクト」の方が良いでしょうか。
一般的にネグレクトとは、「幼児・児童・高齢者・障害者などに対し、その保護、世話、養育、介護などを怠り、放任する行為」を指します。中でも特に、子どもに対して行われるネグレクト、すなわち「育児放棄」を意味して使用されることが多いようです。
厚生労働省によると、ネグレクトは「身体的虐待・精神的虐待・心理的虐待とならぶ虐待の一つ」とされています。ほかの3種類の虐待が一般的に「子どもに有害なことをする」ものであるのに対して、ネグレクトは「子どもが必要とするものを親が提供しない」ことであると言えます。
自分の親が「虐待してた」なんて思いたくないですよ、でも残念ながら我が家、どうやらネグレクト状態でした。
というのが、「猫」が絡むことで一気に表面化してきたんです。
一軒家に猫が15匹以上!多頭飼育崩壊の暗黒時代
15匹以上ってのが何で特定できないかっていうと、それだけ管理できてなかったんですね。アニマルホーダーっていう状態です。
アニマルホーダーのホーダー(hoarder)とは、物を捨てれずにためこむ人・片付けられない人の意で、アニマルホーダーは犬や猫などをどんどん連れてきて抱え込む人のことをさします。(別名アニマルコレクターとも、過剰多頭飼育者とも言われています。)
野良猫を拾ってきたのをきっかけに、小学校高学年~高校時代にかけて、どんどん猫の数が増えていきました。
避妊とか去勢手術してなかったんです。で、子猫が生まれる。
当初は里親探して譲ったりしていたんですが、親もなんだかセルフネグレクト気味になっていって、それからは一気に家が猫屋敷に、同時にごみ屋敷になっていきました。
テレビで見たことある人もいるかもしれませんが、猫とごみ屋敷の組み合わせってなかなか最悪ですよ。想像してみてください。床一面45ℓのごみ袋いっぱいぐらいのごみが敷き詰められている上に、猫の糞尿が垂れ流しです。文字通り足の踏み場ないです。どうやって生活してたのか今でも謎です。
父親は仕事だとか言って家に帰らなくなるわ、母親は激務で家にほとんどいないしスーパーの総菜食べて寝るだけ、みたいな状態。
布団の上だけは何とか一定の状態キープしてましたけど、それでも学校から家に帰ったら布団の上にう●こされてる、みたいなことは当たり前でした。
そんな家に住んでたら教科書もノートもぐちゃぐちゃです。う●こだけじゃなくて爪とぎとかしますからね、猫。家で宿題なんて無理無理。
そんなわけで、ろくに勉強もせず、いじめられたりもして、中学校はずっと不登校気味でした。
給食食べて部活するためだけに学校行く、みたいな。
ちなみに水泳部だったんですが、水泳部って最後にシャワー浴びるので、それで「今日は風呂入った」カウントしちゃって、中学校時代もやっぱり不潔でした。
まあ、自宅は風呂場にも普通にう●こありましたしね。
中学3年の2学期、「獣医になろう!」と決起
そんな猫ごみ屋敷に住みながら、ふと「獣医になりたい!」と思い立って、それまで全然してこなかった勉強をモーレツにやるようになりました。
1学年300人くらいいる中学校で、試験の結果下から数えて10番以内、みたいな状態から、一気に高校入試の模擬試験ほぼ満点になるまで勉強したんです。
(この経験はその後「私はやればできる子」という謎の自信につながります)
でも相変わらず宿題はやらないし、忘れ物多いし、2学期になってから人が変わったようにテストで点取れるようになったとしても、内申点は多分最悪です。
嫌いな先生には徹底的に反抗してたんで尚更でしょうね。
テスト的には志望校どころか県内トップの公立校も全然行けるくらいだったけど、内申点がダメすぎて、結局どちらかというと「頭悪い」方の普通科の高校に進学することになりました。
高校に進学してからも獣医の夢は見続けて1年くらいは学年順位1~3位くらいキープしてたんですが、2年になってからプツンと勉強に対するやる気が途切れます。
なぜかっていうと、それまでも細々と続けていたんですが本格的に腐女子としての活動にのめり込んでいくようになったんです。高校2年で初のコミケ参戦、以後おこづかいのほとんどを同人誌やら漫画やら画材やらにつぎ込んでいきました。
というのも、勉強、特に物理で盛大につまづてしまったからです。
勉強して良い成績を取るのが楽しくて仕方がなくて、何なら友達数人しかいない根暗タイプだったのに生徒会長にも立候補するくらい最高に躁状態でしたが、勉強につまづいたのをきっかけに腐女子としてインターネットでサイト立ち上げてネット中毒になっていきます。
元々中学の頃から自分のサイトとか作っていたんですが、よりのめり込んでいった。
それと大体同時期くらいに、やっと気付きます。
あれ…我が家ってもしかして普通じゃない…?
そりゃそうです、テレビ見ても漫画見ても友達の家に行っても、大体普通の家です。猫いっぱいいない。ゴミもたまってない。父親も毎日帰ってくる。
多分、本当は結構前から「うちはおかしい」って感じてたんだろうけど、面白いくらい見て見ぬふりしてきてるんですよね。
だって家で猫が出産して子猫が死んで腐って蛆わいてるような家にいながら「獣医になりたい!」ってどう考えてもおかしいでしょ。
で、どうやら親もまともじゃないぞ、と思い至った瞬間に人生最悪の躁うつ混合状態がやってきます。
高校中退、実家を飛び出て表面化したメンタル異常
とにかく「普通の家に住みたい!」ってので頭がいっぱいでした。
それには家を出てアパート借りるのが一番手っ取り早かった。
幸い親はスーパー放任主義な上にお金は出してくれました。
(後に、その時点で親が多重債務状態だったことがわかるんですが、それはさておき)
で、16歳高校中退職歴なしがやったのはとにかくバイトしまくって稼ぐこと。もちろん掛け持ちで。でもまあ、それも3ヶ月で終わりました。何しろ躁うつ混合状態だったから、死にたくて消えたくて仕方がなかった。それで、自殺未遂したのをきっかけに寝たきり、いわゆるうつの急性期状態になった。
多分それまで表面化しないように蓋してきたものが、一気にあふれ出てぐちゃぐちゃになってたのがこの時期。
幸いにも3ヶ月馬鹿みたいに稼いで貯めてた貯蓄が多少あったから、しばらくは何とかそれで生きていた。でも気分はもう最悪ですよ。何のために生まれたのか、生きてるのか、ひたすら泣き続けていました。
3ヶ月くらいはぐったりしていたけれど、徐々に体が動かせるようになって、でも気分は最悪。自己肯定感何それおいしいのって感じです。
そこで私がやったのは、「処女を捨てる」という行動でした。
絵にかいたような躁状態
出会い系サイトでやり取りをして処女を捨ててからというもの、手あたり次第見境なくやりまくりました。
根暗な腐女子だったのが一転して、派手でとにかく露出の多い服ばかり着るようにもなった。
若い女とやりたい男にとってはうってつけですよね。服を買ってくれたりお金をくれる人もいたので、生活費はそれで賄っていました。
半年くらいそんな腐った生活をしていたんですが、ある男に出会ってから、更に転落していきます。
モラハラ男との同棲生活を経て、ホームレスへ
その男は典型的なモラハラ男でした。暗黒時代第二章の幕開けです。
モラハラ男との生活
モラハラ男性は社会的評価を重視するため、外傷などの証拠が残るような暴力をふるうことは滅多にありません。
しかも普段は魅力的な人物として振舞っているため、周囲は彼がモラハラ男性などとは、思いもしないでしょう。普段は人前であなたを褒めたりすることすらあり、あなたが彼の悪口を言えない、あるいは言っても信じてもらえないよう、巧妙に手が打たれています。
(中略)
モラハラ男性はターゲットのコンプレックスや弱みを巧みに突き、
「お前が悪い」
「お前のような女に付き合ってやれるのは俺だけだ」と相手を精神的に追い詰め、自分の言いなりにしようとします。ターゲットにされる女性は、責められると「自分が悪い」と思ってしまう優しいタイプのため反論できません。
「私に悪いところがあるから、彼が怒るんだ」
「彼に嫌われたらどうしよう」そんな思いから、常に彼の怒りに怯え、顔色をうかがうようになってしまいます。
出会い系サイトからは足を洗ったものの、モラハラ男と出会ってからはそいつの奴隷のようになっていきました。
バイトは掛け持ちで12時間労働、三食きっちり作る、家事は全てやる、その上その男の仕事の手伝いもやらされる。4時間睡眠もザラです。
もちろんきちんと出来ていなければ強烈に言葉で叩かれます。
「お前のため」「俺が育ててやっている」という常套句と、逃げようとすると「俺にはお前しかいない」という縋り付きに縛り付けられ、時に暴力も振るわれ、奴隷というか虐げられてるというか、ともかくその男の支配下で2年程同棲生活をしていました。
実は、この辺りの記憶はほとんどないんです。
死にそうな心身で必死に毎日顔色をうかがっていたことは覚えています。
でもやっぱりそんな生活は健全じゃないし、長く続きません。
うつで死にたくなる→夜逃げ失敗→首輪で繋がれて監禁されたところで、さすがにいやいやいや、もう無理と実家の母を頼り、何とかモラハラ男のもとから逃げることが出来ました。
でも、逃げた先は実家、そう、猫ごみ屋敷です。
パワーアップしていた母のセルフネグレクト
モラハラ男と生活していた2年の間、実家はどうなっていたかというと、全く変わっていないどころかパワーアップしていました。
モラハラ男と一緒とはいえごみ屋敷ではない家で生活していた自分が、改めて実家の惨状を見た時の感想は
「これはやばい、どうにかしなければ」
です。
すぐに父親を説得し、特殊清掃業者を呼びましたが、母親は家に他人を入れることを拒みました。
そりゃそうです、10年以上家を不在にして見て見ぬふりをしてきた父親が、いきなり「家をきれいにするぞ」と言ってきたわけですから、私なら何様のつもりだと言いたくなります。
そんなこんなで両親は険悪に、私は実家に居場所がないので祖母の家に身を寄せてうつ状態の身体を休めていましたが、2ヶ月経ったところで祖母から「いつになったら出ていくんだ」と言われたのをきっかけに、祖母の家も飛び出します。
裸一貫、ではないですが、3日分の服や貴重品だけを持っての「家出」です。
逃げてばかりですね、私。
ネットカフェ難民という名のホームレス
日雇い派遣で食いつなぎながらネットカフェを転々とする日々が始まりました。
うまく仕事が見つからず、お金がない日は駅のトイレなどで夜を明かして、昼地下鉄で寝る、という事もしていました。
きれいな駅のトイレって、ウォシュレットなんですよ。
何が言いたいかというと、コンセントがあるから携帯の充電が出来る。
携帯で仕事のやり取りをしていたので、携帯は生命線です。
携帯電話は、ネットカフェ難民に多いとされる日雇い派遣労働者が人材派遣会社からの出発コール(出勤・現場到着報告)・終了コール(勤務終了報告)・新規派遣先の前日確認などに利用する。
秋~冬にかけてネットカフェ難民として、うつ状態だけれど働かなければ食べれないという、まさに生死をさまようような生活を送りました。
そんな中、たまたま友人と入ったゲームセンターに、その友人の古い知人がいて「3人で飲みに行こう」と意気投合します。
その友人の古い知人が、今の夫です。
彼は私の境遇を知ると、家に招き、合鍵を渡してこう言いました。
「日中僕は仕事でいないから、好きに使っていいよ。ベッドもあるしシャワーも使って。」

曰く、夫は私に一目惚れだったそうです。
第二の人生がスタート
夫とは1年後に籍を入れ、結婚生活がスタートしました。この時、ようやく20歳です。
普通のサラリーマンの夫。残業は多いけど土日休み。
自分も地に足がついた仕事に就かなければ、と思い、事務系の派遣の仕事から始めます。最初はデータ入力、そしてコールセンター、受付事務と、派遣切りに遭っては次の職へと転々としました。
時々うつの症状に悩まされましたが、受診には至らず、どうにか生活していきます。
「いつかは正社員」
そう思い、簿記や高卒認定試験、FPなどの勉強をしました。
高校の時に物理でつまづいたものの、勉強はやっぱり結果が出るので楽しいのです。
派遣で不安定ながらも、着々と経験を積んでいくのはゲームに似ていて、やりがいもありました。元々勉強や仕事が好きなんだと思います。
産後うつを契機に、障害者手帳を取得
20代半ばで妊娠、出産してから契約社員として職に就いたものの、1年後に私は育児や家事、仕事のストレスで倒れてしまい、精神科を受診。
「適応障害」という診断で1ヶ月休職します。
最初に処方された薬はジェイゾロフトでした。
はじめて精神科の薬を飲んだわけですが、忘れもしません。
こんなにも効くものなのかというくらい憂鬱な気分は吹き飛び、1ヶ月も休んでいられない、早く仕事をしたい、あれこれやらなきゃいけないことが沢山ある!と完全に躁転したのです。
復職後間もなく、障害者手帳の3級を取得して、今でも持ち続けています。
契約社員として働いていたその職場は、福祉の機関でした。だから、障害に対しては理解があり、躁とうつを繰り返しながらも何年か働き続けることが出来ました。
そんな職場を契約期間満了で退職する時に私が選んだのは、「福祉の専門学校への入学」です。
「いつかは正社員」
そのためでもあるし、福祉という仕事に対してとても惹かれていたのもあります。
雇用保険の職業訓練を利用しての入学だったので、教科書代以外の学費(通常200万ほどかかるもの)も無料で通うことが出来ました。
学生をやり直し
職業訓練で通うと言っても、普通の専門学校なので周りはほぼ18歳の現役学生ばかりです。この時私は30歳。
元々勉強は好きでしたし、何より働いているよりも時間を自由に使えたので、程よく療養もできました。
しかし、国家資格を取得する専門学校です。楽しいばかりではありません。
2年生になると2回実習という形で、介護現場に1日8時間、1ヶ月間通って課題に取り組まなければならない期間があります。
うつの症状は実習の1週間前から現れ始め、実習中はお腹に包丁を刺して死ぬことばかり考えていました。
この絵は、実習中に描いたものです。
こんなことを考えながらも、出席日数ギリギリで何とか実習を終えて、正社員としての内定ももらい、無事に卒業することが出来ました。
憧れていた正社員…が、
内定をもらったのは介護職としての仕事でした。
「うちは残業もほぼないし、夜勤も8時間なんですよ」
という言葉にまんまと釣られたのですが、施設介護で残業がほぼないというのは多分都市伝説の類です。
実態は「残業代は出ないけど残業はあるよ」でした。
他の介護現場に就職したクラスメイト達もどうやら同様のようで、介護という仕事の闇を見た気がします。
仕事内容の難しさは実習で身をもって学んでいたのである程度覚悟していたのですが、1日2~3時間のサービス残業は完全に想定外でした。
毎日レッドブルのロング缶を片手に出勤しないと身体が持たなかった。
結果として、半年でその職場は辞めて、クローズドで転職をします。
その転職先が今の職場です。
福祉の仕事ですが、事務職できっちり定時に仕事を終えられます。
それでもうつは悪化しました。
転職したばかりの頃は躁だったので、手帳持ちなのを忘れてがむしゃらに働きましたが、躁でやりすぎた後は必ず急降下します。
躁の時に背負い込みすぎた仕事の量、回転しない頭、年度末の異動で慕っていた先輩が全員いなくなり、環境もガラリと変わってストレスが蓄積。自宅に首を吊れる環境があったら、もしかしたら自宅で首つり自殺を図っていたかもしれません。(我が家は全て引き戸でロープをかける場所がないのが幸いでした)
何度「入院させてくれ」と119しようと思ったことか。
息子を自死遺族にしたくはなかった。それだけが生と死をつなぐ一本の糸でした。
そこで行きついたのが、ODです。ネットカフェに行き、3週間分の薬を全て酎ハイで飲み下しました。
飲んだ後のことは記憶がありませんが、レシートや家族から聞いた話からすると、ネットカフェを普通に会計して出た後、路上で倒れて救急車で運ばれたようです。
こうするしかないと決意を固めて、手帳の今日の日付に自立支援医療証と障害者手帳を挟み、わざわざ人目が付く場所で倒れる算段をつけて決行したので、なかなか計画的です。
これは薬を飲んでから手帳に記したメモ。思いつめてます。
それからは現在まで、仕事を休職して療養しています。
ちょっと生き方を考え直そう

障害者手帳を取得して4年経ち、ようやく自分の病気と向き合う覚悟が出来たというか。
将来のためにもキャリアを積んでいかなければ、と焦って自分の病気のことを脇に置いてきてしまったから、上手くいっていないんじゃないかと思うようになりました。
じゃあ、どうしたらいいのか、というのは今模索中です。
このブログを作ったのは、「どうしたらいいのか」考えをまとめながら、考えを同じ病気を持つ人にシェアして、生きるヒントにならないだろうか、と思ったからです。

気分障害とのおつきあい、今後ともよろしくお願いします。